日本初のドーム球場といえば”東京ドーム”ですが、実は東京ドームより前に別の地域で建設されるはずだったドーム球場の計画をご存じでしょうか?
この記事では、幻となってしまった日本初のドーム球場計画の全貌を紹介します。
日本初のドーム球場
1979年7月20日、ドラゴンズの親会社である中日新聞がある計画を報じました。
名古屋市に本社を持ち、現在はノリタケカンパニーリミテドとして知られる日本陶器が、日本初の屋根付き多目的スタジアムの建設を計画していることが明らかになったのです。
「名古屋に全天候型球場」と1面に大きく見出しが躍り、世間はようやく日本にもドーム球場ができると、期待に満ちあふれていました。
当時日本陶器の会長を務めていた岩田蒼明氏は、同社の創立75周年記念事業として何かいいアイデアはないかと模索していました。
そこで当時 日本陶器の社長を務めていた杉本悌二郎氏がドーム球場の建設案を提案したのです。
アメリカ暮らしが長かった杉本社長は、アメリカのアストロドームを例に出してドーム球場の魅力を岩田会長に伝えました。
岩田会長も賛同し、大成建設に持ちかけるところまで話は進んでいたのです。
中日ドラゴンズが本拠地としていたナゴヤ球場が設立から30年以上経過し、老朽化してきたことも後押しとなりました。
ノリタケドームの建設予定地は、名古屋駅から徒歩12分の日本陶器・本社工場跡地でした。
野球を中心とした各種スポーツイベントの会場に利用されることから、駅が近く、アクセスがしやすい本社工場跡地が選ばれたのです。
名古屋駅は新幹線に在来線、名鉄、近鉄、地下鉄が通るターミナル駅。
愛知県内で最も人が集まる場所に日本初のドーム球場が誕生すれば、大きな話題を呼び、採算もとれると予想したのです。
ノリタケドームの敷地面積は、ナゴヤ球場の3.5倍の約3万8000平方メートル。
地上5階建て、最高部の高さ69メートルの建設計画でした。
想定されていた収容人数は、なんと4〜6万人。
これは現在のナゴヤドームの収容人数を上回る規模になります。
それどころか、現在収容人数が最も多い東京ドームの約5万5000人を超え、日本最大のドームになっていた可能性もあります。
これだけの規模のプロジェクトには、総工費として約150億円もかかることが予想されていました。
総工費の負担は土地と建設費の半分を日本陶器が提供し、残りは地元財界に出資協力を要請することになったのです。
当時、名古屋市は1988年開催の夏季五輪の誘致を進めていました。
ノリタケドームがオープンして名古屋五輪が開催されれば、大きな経済効果が見込めると言われていたのです。
2021年のコロナ禍で開催された東京五輪は
ほとんどの競技が無観客の中、約6兆円の経済効果と推定されています。
もしコロナがなければ最大で約19兆円の経済効果があったといわれています。
日本陶器は夏季五輪開催に間に合うように1982年3月に着工し、1984年2月の完成を予定していました。
大企業である日本陶器が動き出し中日新聞社が大々的に報じたことから、このプロジェクトは順調に進んでいくだろうと誰もが思っていました。
しかし、計画を根本からひっくり返す、まさかの結末が待っていたのです。
まさかの白紙
多くの人たちから期待されていた日本初のドーム球場建設ですが、早い段階から雲行きが怪しくなっていきます。
プロジェクトが発表された翌年の1980年5月、日本陶器の岩田会長が天国へ旅立ってしまいました。
会長の意思を受け継いだ杉本社長は建設プロジェクト中止の噂が出るたび、「ドームは必ず実現させる!」と意気込みを見せていました。
しかし1981年8月、今度は杉本社長が倒れてしまい、代表取締役を退任。
その後、総工費が200億円に高騰し、地元財界へのさらなる資金協力が必要に。
しかし、建設プロジェクトを進めていた2人を失ったことから、財界への根回しは思うように進みません。
さらに建設資金だけにとどまらず、電波障害・騒音などに対する近隣住民の反対運動も起きてしまいます。
これらの改善や説得に、多くの時間を費やしてしまいました。
そして、問題が山積みになってきた建設プロジェクトに決定的なダメージを与えたのは、名古屋五輪誘致の失敗でした。
1988年の名古屋五輪開催を目指し、当時の愛知県知事・仲谷義明氏を中心に、誘致活動が行われていました。
しかし1981年9月に行われた国際オリンピック会議で、開催地がソウルに決定してしまったのです。
大方の予想では「名古屋で確実」と見られていただけに、その落胆はとても大きいものでした。
当時東海テレビのスタジオで発表を見守っていたみのもんた氏は、「名古屋で決定」という原稿が使えず、特番をすべてアドリブでこなしたといいます。
番組アシスタントを務めていた陸上走り幅跳びの日本記録保持者である曽根幹子氏も「今、ソウルって言ったの?」と驚きを隠せませんでした。
この名古屋五輪消滅が決まってから、ノリタケドームの採算問題が浮上します。
ノリタケドームの採算ラインは、年間200日稼働が最低条件。
ドラゴンズの本拠地となっても、年間65試合しかホームゲームを組むことができず、残りの130日をどうするかで、関係者は頭を悩ませました。
もし名古屋五輪が実現していれば、多くの関連イベントを開催できましたが、それができなくなってしまったのです。
1984年1月、杉本氏の後任として日本陶器の社長を務めていた倉田隆文氏は、採算問題を理由にドーム計画の白紙撤回を発表。
ノリタケドームは幻と消えてしまいました。
後に日本陶器の幹部も、「そろばんが揃わなかったのが最大の理由」と撤退理由を明かしています。
ファンが楽しみにしていた日本初のドーム球場は、夢物語に終わってしまいました。
ノリタケドームを本拠地として利用する予定だったドラゴンズも、中止のあおりを受けます。
劣化していたナゴヤ球場を、そのまま使用することになってしまったのです。
その後、13年間もナゴヤ球場を使用したドラゴンズは、1997年にようやくナゴヤドームへ本拠地を移すことができました。
しかし、ナゴヤドームは、ナゴヤ球場よりもアクセスが悪いと、不便さを指摘されています。
ナゴヤドームは名古屋駅から地下鉄で約25分の場所にあります。
そして地下鉄を利用する際は、必ず乗り換えが必要になるのです。
ナゴヤ球場は名古屋駅から電車で5分とアクセスしやすい場所だったため、どうしてもナゴヤドームの不便さが目立ってしまうのです。
電車で25分もかかることに加えて、最寄り駅であるナゴヤドーム前矢田駅は、試合終了後に大混雑します。
混雑を避けるため、中日が勝っていても試合中に帰宅してしまうファンもいるほどです。
名古屋駅近くに建設される予定だったノリタケドームなら、遠方からでも来やすくなっており、集客面でも大きくプラスになっていたかもしれませんね。
建設予定地の現在
幻になったノリタケドームの建設予定地は、現在どうなっているのでしょうか?
1981年に日本陶器から社名を変更したノリタケカンパニーリミテドは、2001年10月5日に、陶磁器に関する複合施設「ノリタケの森」をオープンしました。
豊かな森に囲まれたノリタケの森では、噴水広場や煙突広場など、自然を感じながらのんびりと散策できます。
週末には、多くの家族連れやカップルがノリタケの森を訪れています。
2016年3月17日には三菱商事株式会社、イオンモール株式会社、三菱地所レジデンス株式会社と共同で、名古屋市に都市計画提案を行ったことを発表しました。
「ノリタケの森から広がる上質な潤いのあるまちづくり」をコンセプトに、ノリタケの森を維持しながら本社工場跡地に商業・住宅の開発を行うという計画です。
2021年10月27日、商業施設とオフィスを一体化した「イオンモール Nagoya Noritake Garden」をオープン。
プラネタリウムや巨大な本棚もあり、インスタ映えスポットとして人気になっています。
また、地域の賑わいや交流の促進を目的に、ノリタケの森とイオンモールの共同イベントも定期的に開催するなど、盛り上がりを見せています。
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