ドラフトで1位指名された選手は、マスコミにも大きく取り上げられる一方、下位指名された選手は、ひっそりとプロ野球生活をスタートします。
しかし、プロ入り後にメキメキと頭角を表し、ドラフト1位の選手を越える大活躍を見せる下位指名の選手もたくさんいるのです。
この記事では、ドラフト最下位指名から成り上がり大活躍した選手たちを紹介します。
巨人の次期エース候補
最初に紹介するのは、宮崎県出身の戸郷翔征投手です。
聖心ウルスラ学園高校のエースとして2年生の夏には甲子園に出場。
1回戦では完投勝利をおさめるなど、全国の野球ファンも注目する投球を見せました。
U-18日本代表との練習試合では、宮崎県選抜の一員として好投を見せ評価を高めます。
当時、10球団から調査書が届き、「上位指名もあるのでは」と関係者も期待を寄せていました。
しかし、2018年のドラフトでは、巨人から6位で指名をされたのです。
念願のプロ入りとはいえ、この年の巨人の6位というのは最下位の指名でした。
ルーキーイヤーは二軍で11試合に登板し、4勝を記録。
9月21日には1軍初先発のチャンスも与えられます。
この試合では勝利を挙げることはできませんでしたが、9月27日の横浜戦で見事プロ初勝利を達成しました。
その後も、高卒ルーキーながらクライマックスシリーズの先発を任されるなど、1年目から数々の経験を積みました。
2020年は開幕ローテーション入りを果たすと、開幕3連勝を記録。
巨人で高卒2年目でローテーション入りを果たしたのは、桑田真澄投手以来、33年ぶりの快挙でした。
8月末までに7勝をあげますが、その後は失速してしまいます。
新人王の座は、広島の森下暢仁投手に譲りますが、9勝を挙げ新人特別賞を受賞しました。
初の二桁勝利を誓った2021年も、序盤から安定した投球を披露しましたが、
後半戦でまたも失速。
結局、2年連続の9勝にとどまってしまいました。
二桁勝利を逃したものの規定投球回を達成し、先発の軸としてチームに大きく貢献した年となりました。
今シーズンは課題だった後半戦の失速を見事に克服し、念願の10勝をマーク。
巨人の投手陣の柱として安定した活躍を見せています。
今年23歳でまだまだ伸びしろも十分な戸郷投手。通算173勝の桑田投手を超えることができるのか。非常に楽しみな先発投手です。
阪神にとって欠かせない存在に
次に紹介するのは、阪神のブルペンを支える岩崎優投手です。
サッカーの名門として知られる静岡県・清水東高校出身の岩崎投手。国士舘大学進学後は、2部リーグで主にリリーフとして活躍しました。
2013年のドラフトで、阪神から最後の指名となる6位で入団します。
指名当時のことを本人は「まさか指名されると思っていなかったので、
下位指名はもう気にせずゲームなどしていた記憶があります」と明かしています。
阪神に入団した岩崎投手は、ルーキーイヤーから先発で5勝を挙げる活躍を見せます。ドラフト6位以下の選手が1年目で5勝を挙げたのは、球団初の快挙でした。
しかし、2年目からは先発としてなかなか芽が出ず、悩む期間が続きます。
2017年からは、大学時代と同じくリリーフへの転向を決断。この年いきなり勝ちパターンに定着。チーム最多の66試合に登板し、防御率2.39という成績を残しました。
その後は、阪神のブルペンを支える存在として、毎シーズン40試合以上に登板。
2019年には、驚異の防御率1.01という数字を記録しました。
今シーズン、阪神はケラー投手が守護神として定着せず、急遽自身初となる抑え投手に。9月末までに28セーブをあげる活躍を見せています。
球界のラオウ
次に紹介するのは、「ラオウ」の愛称で親しまれている杉本裕太郎選手です。
徳島商業高校では、1年生の夏から徳島県大会で投手として登板を果たします。
甲子園に進出しますが、残念ながら杉本選手の登板機会はありませんでした。
2年生の秋からエースに定着したものの、甲子園への出場は叶いませんでした。青山学院大学進学後は外野手に転向。
サイクル安打達成やベストナインを受賞する活躍を見せ、卒業後はJR西日本へ進みます。
2015年のドラフトでオリックスから10位指名を受け入団しました。
10位指名は、育成選手以外の支配下登録選手として指名された88人中、87番目でした。
社会人出身の即戦力スラッガーとして期待されていた杉本選手ですが、なかなか出場機会に恵まれません。
2016年から2020年までの5年間で打ったホームランは、わずか9本に終わっています。
2020年は、当時二軍監督だった中嶋聡氏の監督代行就任に伴って、1軍に昇格。
40試合以上に出場し、ブレイクの兆しを見せました。
ついに覚醒したのは2021年シーズン。
開幕後からホームランを量産し、シーズン途中からは不動の4番バッターに定着していきます。
6月には月間打率3割7分5厘、ホームラン5本、19打点という活躍をみせ、月間MVPを受賞しました。
さらには初のオールスター戦出場も果たし、見事にホームランも放っています。
後半戦でもホームランを積み重ね、30歳という遅咲きながら自身初の30号ホームランを達成。
終わってみれば、32本塁打で、パ・リーグのホームラン王に輝きました。
ドラフト10位指名の選手による本塁打王の獲得は、史上最も低い指名順位からとなりました。
オリックス25年ぶりのリーグ制覇を達成した2021年は、杉本選手にとって生涯忘れられないシーズンとなったことでしょう。
漫画「北斗の拳」のラオウが大好きな杉本選手は、ホームランを打った後に右拳を突き上げる”昇天ポーズ”もファンに大人気です。
今シーズンは、不調に陥り前年ほどのホームラン数は残せてはいませんが、それでも二桁本塁打を記録しています。
遅咲きのスラッガーのどデカいホームランと「昇天ポーズ」を、これからも期待しましょう。
200勝左腕
次に紹介するのは、名球会入りしたレジェンド左腕・工藤公康投手です。
名古屋電気高校ではエースとして活躍し、3年生の夏には甲子園でノーヒットノーランを達成した工藤投手。
1981年のドラフトで西武から指名を受け入団します。しかし、指名順位は最下位の6位。
甲子園を沸かせた投手なのに、なぜ最下位指名だったのでしょうか?
実は工藤投手はドラフトの4日前、「指名のお断り」を各球団に通達。
プロには進まずに熊谷組に入り、社会人としてプレーすることが内定していたのです。
しかし、ドラフトでは西武が6位で強行指名。
プロ入り拒否を明言していた工藤投手ですが、交渉を重ねた末、最終的に西武に入団します。
西武の根本陸夫管理部長が主導して、工藤投手を獲得したともいわれており「根本マジック」の一つともされています。
高卒ルーキーながら、27試合に登板するなど、着実にキャリアを積んでいった工藤投手。
1985年に防御率2.76で最優秀防御率を獲得すると、2年後の87年にも再び最優秀防御率に輝き、15勝を挙げる活躍をみせます。
それから毎年のように10勝を記録し、先発の柱として西武の黄金期を支えました。
1994年のオフ、FAを宣言しダイエーへ移籍。
ダイエーでも最多奪三振のタイトルを獲得するなど、エースとして活躍。
さらなる飛躍のため、再度FA権を行使し、巨人への移籍を決めました。
長嶋茂雄監督のもと、リーグ制覇に貢献するなど、巨人でも活躍した工藤選手は、2007年に横浜に移籍。
現役の最後はプロ生活をスタートさせた古巣の西武に戻り、47歳で現役を引退します。プロで29年間投げ続け、通算224勝。
14回のリーグ優勝と11回の日本一に貢献し、数々のタイトルも獲得した名投手として、多くの野球ファンの記憶に刻まれています。
また、選手だけにとどまらず、監督としても大成功を収めます。
ソフトバンクの監督として、7年間で5回の日本一に輝き、常勝チームの大監督として君臨したのでした。
天才バットマン
次に紹介するのは、横浜の不動のサードとして活躍を続け、「ハマのプーさん」とも呼ばれている、宮﨑敏郎選手です。
日本文理大学で数々のタイトルを獲得し主将としてチームを引っ張った宮﨑選手。
社会人野球のセガサミーでは、都市対抗野球で逆転満塁ホームランを打つなど
プロ野球のスカウト陣に対しインパクトある活躍を見せました。
2012年のドラフトで横浜から指名を受け入団します。
しかし、スカウトの評価は決して高くなく指名された順位は6と、最下位指名だったのです。
プロ2年目までは、1軍と2軍を行き来し、即戦力として期待通りの活躍をすることはできませんでした。
しかし、2015年に58試合に出場し、ブレイクの兆しを見せると、2017年にはその才能が一気に開花。128試合に出場し、打率3割2分3厘で見事首位打者を獲得。
ベストナインにも選ばれ、リーグを代表する選手へと飛躍したのです。
その後も、毎年のように3割前後の打率を記録するなど、安定した成績を残し続けています。足が速い選手ではありませんが、卓越したバットコントロールが武器で、ヒットを量産。
打撃だけでなく、華麗なサードの守備も宮﨑選手の持ち味です。2018年には初のゴールデングラブ賞を受賞し、守備でもチームに貢献しています。
2022年シーズンも安定した打撃を見せ、チームの中心打者として活躍しています。今後も不動のサードとして、勝負強いバッティングを見せてくれることでしょう。
2000本安打達成
次に紹介するのは、ロッテのレジェンド・福浦和也選手です。
千葉県出身の福浦選手は、地元の習志野高校へ進学。2年生から4番に定着すると、秋からは142キロを投げるエースとしても活躍を見せていました。
1993年のドラフト会議で福浦選手は、ロッテからドラフト7位指名を受けます。全12球団64名が指名される中、最後に名前を呼ばれた選手としてプロ入りを果たしたのです。
ロッテは当初、福浦選手を投手として獲得しました。しかし、入団後すぐに肩を故障してしまいます。
そこで1年目の7月に野手への転向を決意。
3年目までは1軍での出場がなかったものの、1997年7月にプロ入り初安打を放つと、終盤にはファーストのレギュラーに定着します。
翌1998年には初の開幕スタメンを勝ち取り、129試合に出場し、打率2割8分4厘と徐々に存在感のあるプレーヤーに成長していきます。
そして2001年シーズン、福浦選手は開幕から天才的なバッティングで好調をキープ。
日本ハムの小笠原道大選手とのデッドヒートを制し、打率3割4分6厘というハイアベレージで自身初のタイトルとなる首位打者を獲得しました。
その後も安定したバッティングで、2006年まで6年連続で打率3割を記録する活躍を見せ、ロッテの中心選手へと登り詰めました。
しかし、2008年頃からは慢性的な腰痛、首の痛みに悩まされることに。この故障により、キャリア晩年はベテランらしく経験を活かした渋いバッティングで
代打の切り札として活躍。
2018年9月9日には、42歳9か月で2000本安打を達成しました。
2019年いっぱいで現役を引退した福浦選手は、通算2235試合に出場し、2000安打ぴったりでプロ生活を終えたのです。
生涯打率も2割8分4厘と高い数字を残しています。
引退後には2020年から、2軍ヘッド兼打撃コーチに就任。2022年からは1軍打撃コーチに配置転換となり、ロッテのチームの打撃力向上に取り組んでいます。
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